「先生におまかせします」は無責任か

高齢者の死因で老衰というものがある。避けられない死。家族は親の最期の日々の過ごし方に関して選択肢を渡され、早く選ぶように迫られる。

高齢化社会まっしぐらの日本では、こんなシーンがあちこちで見られる。

高齢者と聞くと、よぼよぼしながら杖をついて町中を歩いているおじいさんおばあさんをイメージされるかもしれない。入院病棟で高齢者のお看取りを多数させていただいた総合内科医の身からすると、お元気なご高齢の方だな、と感じてしまう。今回はもっと認知症と廃用(全身の衰え)が進み、最期を迎えられる時の話だ。

そこそこ元気な高齢者も、脳の萎縮、全身の廃用が進むと、やがて歩行も出来なくなり、介護なしでは動けなくなる。生活の場はベッドの周囲数m内か、ベッド上のみとなってくる。介護力がある家庭なら家人が頑張って世話をするし、介護力がなければ施設に入れられる。さらに認知症が進むと、最終的には脳幹と呼ばれる生命維持(呼吸、咳反射、飲み込みなど)に関わる脳の一部も衰えてくる。食べ物や唾液を飲み込む能力が衰えるので、通常の食事は摂取不能となり、とろみの付いたやわらかい食事などに切り替わる。この段階では、意思の疎通も難しくなってきて、最終的には、あー、などの発声のみ認められる状態になってくる。

老化に伴う嚥下困難・食事摂取困難をきたし始めた高齢者は、誤嚥性肺炎(ムセ込みによる肺炎)を繰り返すようになり、入院退院を繰り返すようになる。入院すると食事摂取が中止され、抗生物質の投与や水分の点滴を行い、肺炎は一時的に治癒する。しかしそもそもの原因である老化(とそれに伴う摂食障害)が改善することはないので、しばらく生活の場に退院できても、すぐに肺炎を再発し病院に戻ってくる。このようなことを繰り返しながら数ヶ月~数年経つと、ついに食事/水分が摂取できない日が来る。この段階でも、患者自身はまだ目を開けて、家族が来たらに反応するぐらいは意識があることが多い。

患者家族は、人生の最終フェーズに近づいている患者を前に、以下のような選択を迫られる。

1.点滴もせず、食事もさせない(もしくは窒息覚悟で少量のみ継続)。自然な最期。

2.点滴を長期間できる施設で過ごし、数ヶ月の予後を見越して最期を迎える

3.一発逆転、胃瘻を作ってみる。それでも最終的には誤嚥性肺炎で亡くなる

大きく分けると、このような選択肢がある。

自分の家族が、老化により死を迎えるという不可避な現実。そのようなテーマに対して、予め思いを巡らした事がある人はそうそういない。このような患者の配偶者も大概が80後半~90代であるので、深く検討することそのものが難しいこともある。となると、主導権を握るのは息子や娘(60-70歳ぐらい)となる。

「俺の責任で、親の死に際を決める」。そのような主体性を持って決断をしてくれれば、話は早い。家族の方針に従い、そのとおりの医療サービスを提供する。

昔、医療現場は父権主義(パターナリズム)が横行していた。治療方針に関しては全て医師の一存で決定し、患者自身や患者家族の意見は軽視する、という診療態度である。これはいけないという動きが欧米を中心に発達し、日本でもインフォームド・コンセントやShared Decision Making(医師-患者で協働した意思決定)の重要性が認識されるようになってきている。疾患によっては、同じ病気に対して複数の治療選択肢があるので(値段は高いし効果も高い薬か、その逆、など)こういった考え方は極めて重要である。このテーマは海外論文を読んでいると幾度となく登場する。僕はアメリカかぶれであり、自分で考えて決断することこそ至上!という考えが強い。それゆえ極力患者家族には、患者の状況を理解してもらい、主体的に方針決定をさせようとしていた。

しかし、医師として多くの経験をさせていただいて感じたのは、自分の親(または配偶者)の最期の過ごし方の方針に関しては、あまり主導権を握りたがらない家族が多いという事実だ。よく言われるのは「難しいことはわかりませんので、先生におまかせします」「決められないので、そちらの判断でやってください」などである。ちなみに、自分の親族が同様の状態になったことがあるが、配偶者の親族も、同じようなことを主治医に言っていた。

果たして、このような態度は、家族としてどうなのだろうか?自分で状況を理解し、自分の責任のもと決断を下す。それが最も正しく上等な行動なのだろうか。「先生におまかせします」的な態度は依存的であり、成人として成熟度が低い、そのように捉える向きもある。責任を背負いたくない人、または背負うキャパがない人にも無理して決断をさせ、それに伴う負担を背負わすことは、果たして善いことなのだろうか。

僕は、必ずしもそう思わない。親戚に「なんで胃瘻作らんかったんだ!」と言われた時に「俺が決めたんだから文句は言わせない」と返せる方ばかりではないだろう。そんな時に「お医者さんがそういってたから」と言える選択肢も、医療者は提供するべきではないか。故人も、自分の死に際して家族に無理に重い決断をさせそれで大きな心の傷を追っても、きっと悲しまれる。

家族の最期という非日常。それに伴う重大な意思決定の連続。その心労は計り知れない。医療者は、患者家族のキャパシティを測りながら、適切な対応をしなければならない。状況はこうです、あとは自分で決めてください。それだけの対応では駄目だ。何でもかんでも自分で決めて下さい、と押し付けるのはあまり高等な医療だとは僕には思えない。

今は、そのように考えている。